鋳物の街「桑名市」の起源と歴史を探る 本多忠勝との関係は?

大洋産業があるこの桑名の地は、古くから「鋳物の街」としても知られており、桑名市で作られた鋳物は「くわな鋳物」と呼ばれています。
桑名市で鋳物づくりが始まったとされる起源と歴史をまとめてみました!

本多忠勝によるくわな鋳物の始まり

桑名市の鋳物づくりの起源は、1601年(慶長6年)に徳川四天王の一人である本多忠勝が、桑名の初代藩主となり、鉄砲作りを命じた事によって始まったとされています。

江戸時代~鋳物づくりの広がり~

戦国時代が終わり平和な江戸時代になると、鉄砲作りで培った鋳物技術が広がり、様々なものが作られます。
この頃に作られた代表的なくわな鋳物は、1667年(寛文7年)に作られた春日神社の大鳥居です。青銅製で作られたこの鳥居は、高さ約7m・幅約6mと、この当時で一番大きな鳥居とされており、現在も桑名市の名物として有名です。
その他にも、神社の灯篭や梵鐘、鍋や釜、農機具なども作られていきました。

明治時代~鋳物の街桑名の確立~

明治時代になると、朝廷の許可が必要とされていた鋳物製造が自由に行えるようになります。とはいえ、製法等も難しい事からこの当時の工場数は10社程だったとされています。
1887年(明治20年)になると、桑名市に隣接する地域(現在の朝日町)で生砂型法(※)に適した鋳物砂が見つかった事、鋳物づくりに必要な資材が七里の渡し・東海道等による物流や人の行き来がある桑名市では手に入りやすかった事から、くわな鋳物の製造が広がる大きな要因となりました。銑鉄を使用した製品が作られるようになったのもこの頃からと言われています。
その後、製麺機や水道器具などの機械鋳物から製造が始まり、ミシン・ストーブ・ガス機器等の日用品も多く作られるようなっていきました。
鋳物づくりが盛んとなったこの時代から、埼玉県川口市・三重県桑名市が鋳物の二大生産地として「東の川口・西の桑名」と呼ばれるようになりました。
 ※鋳型・製法による分類~砂型鋳造法について~

昭和時代~機械鋳物の製造拡大~

1940年(昭和15年)頃まで日用品が多く製造されていたくわな鋳物でしたが、その後の太平洋戦争で日用品の製造が禁止された事や、第二次世界大戦終戦後の復興により近代化が進んだ事から、昭和40年代になると機械部品・精密機器・電気機械等の機械鋳物が中心に製造されるようになります。
この頃の桑名では、工場数も200社程まで増えていきました。

現在のくわな鋳物の製造

200社程あった鋳物工場も、バブル崩壊・オイルショック・海外製品の流出、2008年(平成20年)のリーマンショックと生産量の減少を受け、現在では30社程に減少しています。
また、鋳物製造業の後継者不足・従業員の高齢化、軽くて高強度な材料の開発・鉄製からプラスチック製への移行等、鋳物製造を取り巻く環境は厳しさを増しています。
しかし、現在も「鋳物の街桑名」と呼ばれる地では、マンホール等の水道用鋳物・かき氷機・業務用ガスコンロ・工作機械・建設機械などの機械用鋳物等、製造されているくわな鋳物は多岐にわたります。

現在も桑名市では、江戸時代から続く歴史ある鋳物づくりの魅力を発信すべく様々なイベントも開催されています✨
大洋産業でも、桑名鋳物の魅力を伝え、鋳物づくりの楽しさを発信していけるよう継続して活動を続けていきたいと考えています!

次回の記事もお楽しみに✨

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